私たちがカルテ開示を求める本当の理由

 医療情報の公開・開示を求める市民の会
  事務局長 勝村久司(かつむらひさし)

【はじめに】
 私たちが、医療情報の公開・開示を求める理由は、「医療者と患者との信頼関係を高めるため」に他ならない。
 医療は質が向上してこそ初めて本当の意味で信頼を得るものになりえる。質の向上のためには情報公開による市民や患者等の監視が欠かせない。また、医療が不信感を招いていた理由は、現実にひどい薬害・医療被害・不正請求事件があったからだけではない。それらがあっても、密室性やそれによって保たれる空虚なパターナリズムを改革しようとしなかったことによる。
カルテなどの開示は閉ざされた医療を開いていく象徴である。さらにそれを法制化して患者の権利を認め、医療者と患者の間のパターナリズムを排除し、対等な関係を築いていくことこそが、両者の間の信頼関係を高める唯一の道筋である。
 カルテ開示の法制化に異議を唱える医療者は、患者に情報を与えないことによって、また情報を操作することによって、医療者が一方的に信頼を受けようとしてきた手法が崩されることを心配しているに過ぎない。私たちがなぜカルテ開示やその法制化を求めるのかを記述することが、医療者がカルテ開示の意味と意義をあらためて考え直すきっかけになることを願って本稿をしたためた。

【レセプト開示を拒否された経験】
 私は、8年半前に陣痛促進剤を使われたお産で子供を亡くし、妻も危篤になるという経験をした。(それによる医療裁判の判決は今年三月に大阪高裁で言い渡され完全勝訴した。被告の枚方市民病院は上告をせず、原告勝訴は確定した。)事故直後、私たちの保険者である公立学校共済組合に、どれだけ頼んでもレセプトを開示してもらえなかった無念さは今も忘れられない。その理由は「レセプト開示は治療に悪影響を及ぼすことになりかねないので患者本人に開示すべきでない」とした厚生省の従来の指導だった。
 私たちの場合、赤ちゃんは死亡し母親は大量輸血後持ち直し既に退院していた。治療に悪影響が出るなどの理由による非開示には納得できるわけがない。しかし、あくまでも「厚生省の指導に従っているだけ」と開示を拒み、その後の弁護士の請求にも弁護士会の請求にも応じなかった。挙げ句の果て、レセプトが見られないまま始めた裁判の中で(裁判の為に証拠保存した資料の中にはレセプトの控えは含まれていなかった。)裁判所が必要と認め、開示請求した際にも拒否した。裁判所の請求も拒否するならいったい何のために保管していたのか。保険者は被保険者の毎月の積立金等をもとに、被保険者の代理で医療費を支払っているという親密な関係なのであり、その両者の間に厚生省が壁を作るような指導ができる法的根拠は元来ないはずである。そもそも代金を支払った者に明細書を見せない世界は他にない。しかし、厚生省の指導によって患者はレセプトを絶対に見ることができなかったのである。
 私は「これほどまでの医療の密室性がどれほど医療界を無法地帯にしてきたのか。」と思った。繰り返される薬害・医療被害。膨張し続ける国民医療費。「インフォームドコンセントを訴える前に、医療保険改革を論じる前に、真っ黒なオセロの盤面の角をまず白に換える必要がある。」そのような思いで医療情報の開示を求める市民運動を始めた。
 私は、スモン薬害をきっかけに超党の国会議員団の仲介でできた「薬害・医療被害をなくすための厚生省交渉実行委員会」に入り、約7年前から陣痛促進剤問題と共に、医療の情報開示問題で厚生省と交渉を続けてきた。それぞれの薬害・医療被害の解決を求めると同時に、それ以上にそれらが漫然と繰り返される根本原因である「医療の閉鎖性」こそを打ち破らなければいけないと感じていたからである。

【「市民の会」の結成とカルテ開示への動き】
約3年前には、それまでに知り合った様々な医療被害者や理解ある弁護士・医療関係者らと共に「医療情報の公開・開示を求める市民の会」を結成した。結成にあわせて、大阪市に対して条例に基づいてカルテ開示請求をしたところ全面開示されコピーも、手渡された。そして、レセプト開示に関して詰めの交渉も行ってきた。その結果ようやく、厚生省は一昨年六月二五日、それまでの方針を転換して、レセプトを本人や遺族、委任を受けた弁護士に開示するよう全国に通達を出したのである。(詳しくは「レセプトを見れば医療がわかる(主婦の友社)」に収録の「ドキュメント厚生省交渉〜こうしてレセプト開示は実現した〜」をご覧頂きたい。)
 さらに厚生省は「カルテ等の診療情報の活用に関する検討会」をその半月後の七月一〇日より発足させた。こうして医療の情報開示が着実に進んでいくかに見えた。しかし、この当たりから医師会の抵抗が強くなり雲行きが怪しくなるのである。この検討会は、第4回まで漫然としたフリートーキングを続け、しかもその内容は医師会系の委員を中心とする「癌などの患者が本当の病名を知ってショックを受けても良いのか」「情報開示は医師・患者の信頼関係をかえって損なう」「遺族に開示してアメリカのような訴訟社会になっても良いのか」などのレセプト開示の際に終わったはずの議論の蒸し返しであった。
 私たちは検討会に対し公聴会開催の要望書を提出し、これが第5回検討会で全委員に配布され、公聴会が開かれることになった。私たちは与えられた時間の中で、レセプトが開示され、地方自治体では条例に基づきカルテも開示されているが何の問題も生じていないことなどを訴えた。その後も、検討会に要望書を出すなどをしたが、結局昨年七月に出された報告書には、何とかカルテ開示の法制化を求める提言がされたものの、「カルテ開示は開示に耐えうる環境整備が整ってから」「当面はカルテそのものではなく別の代替文書の作成交付でよしとすべき」「カルテ開示の不履行に対して罰則などの制裁を課すべきではない」「カルテ開示を求めても応じないなどの、苦情や紛争処理については医師会等に処理機関を設置することが望ましい」などの、極めて後ろ向きなものになってしまった。
 その後、議論は医療審議会に移され、一連の医療法改正の中でカルテ開示も法制化されるか否かが焦点になっているが、議論は平行線のままである。
 しかし、その間にも、カルテ開示を求める市民の声が高まるだけでなく、医療者の方から積極的にカルテを開示していく実践的な動きが次々と出始めている。医療審議会やその次にある国会の議論が健全なものになるためには、今一度、市民と医療者がカルテ開示を巡る議論について共通の認識を持っておく必要があるだろう。そのために、いくつかの論点について以下に整理しておきたい。

【隠すケアから告知方法の研鑽へ】
 情報開示が進むにつれて「患者が癌(や精神病)などの病名を知ってショックを受けてもよいのか」という反論が出されることがあるが、私たちは全ての人に無理矢理告知すべきと主張しているわけではない。「開示請求をする人に開示せよ」と言ってるのであり、「真実を知りたい」という人に「真実を知ってもよいのか」と聞くのは愚問である。それでもなお、真実を知らせない方が「心のケア」になるという医療者もいるが、「真実を知りたい」という人に対して嘘をつくことは、重大な人権侵害であることに気付かねばならない。私はもし癌になれば、家族や多くの医療者などと相談しながら、治療法や余生の過ごし方を自分で決めたいと思っている。しかし、もし医療者によって「この人は気が弱そうだから本当のことを言わない方がよいだろう」等と判断されてしまったら、私の選択の権利は奪われて、勝手に現代医療のベルトコンベアに乗せられてしまうことになるだろう。
 私の妻が被害を受けた公立病院は「自然分娩を大事にするが、全員に血管確保の目的で点滴を打つ」と母親教室で説明しながら、ほぼ全員に陣痛促進剤を投与していた。裁判で担当医師は、「本当のことを言うと不安がるから」と弁明した。言葉だけの「心のケア」を名目に不本意なお産を強制される等の、人権を無視した医療には一刻も早く終止符を打たなければならない。
そもそも医療者の一方的な患者の性格把握には間違いが多いことを謙虚に受け止めるべきだと思う。
 私の妻は陣痛促進剤の副作用による過強陣痛を一時間以上訴え続けたが、助産婦によって「我慢が足りない」と叱られるのみだった。この病院は家族を陣痛室に一切入れなかったが、妻がどれほど我慢強い人間であるかを知っている家族が立ち会っていれば、手遅れになるまで放置されることはなかっただろう。
 また、私の妻は第三子の出産の際、第一子のときの緊急帝王切開の傷跡から子宮が破裂し、第三子も重度の脳障害を負い、約二年半寝たきりのままで亡くしている。第三子の事故直後、妻は「もはや泣いていられない」と気丈に第三子を見つめ看護する覚悟をしていた。ところが、看護婦たちは、第三子を見つめる妻に対して、非科学的な、ある意味で宗教的な話まで持ち込んで、次々と妻を泣かせようと意味のない話をするのである。やがて、一人の看護婦が私に対して「お母さんは苦しくても頑張っている子どもを見ても泣かないので、少し母性本能が足らないと思うんです。」と相談してきた。こんなことが、看護記録などで申し送られていたのだ。私は、これまでの経緯を話し、「精神的に追い込まれている妻を家族は何とか支えようとしているのにあなた達のやっていることは全く逆だ」と説明をした。
 このように医療者が勝手に、患者の性格を決めつけ、情報を隠したり情報を操作することは危険である。もしカルテや看護記録の開示が徹底されていたら、「母性本能が足りない」等とは書かずに「涙を流さなかった」と記していただろう。後者の方が正しい情報であるが、前者は間違った情報である。性格については双方がキャッチボールをして、双方が指摘しあい理解し合うべきものである。看護記録には正しい事実の情報を記すべきで、先入観や偏見を許す独善的なパターナリズムからの脱却も情報開示と共に求められているの大きな課題である。
 したがって、今、医療者に求められているのは「告知方法の研鑽」である。「そんなに知りたいのなら教えてやろう。」というような告知では困る。既に、癌や精神病でも積極的に告知をしてきた先進的な医師や病院からは、その方がかえって患者が不安がらず、治療効果も上がることが報告されている。告知の際には、全スタッフで情報交換の上、条件整備、タイミング等も考慮しながら、どんな人間付き合いでもそうであるように、日々悩んだり試行錯誤しながら精一杯接して欲しいと願う。さらに、告知を希望する者だけでなく、患者の自己決定権を保証し、不本意な医療に終わらないためにも、できるだけ全患者に対して適切な情報提供を推進して欲しい。

【遺族への開示こそが信頼を高める】
 大阪市は、2年半前から既に遺族にカルテを開示し、他の自治体でも、遺族への開示を盛り込んだ条例を制定したり、遺族へのカルテ開示を決めるところが増えてきている。また、二年前のレセプト開示決定の際には、当時の小泉厚生大臣は国会で「子どもが死んで親にレセプトさえ見せなかったとは憤慨に耐えない」と語った上で、厚生省国保課課長は記者会見で、「小さな子どもが亡くなったとき、親がどんな治療を受けたのか知りたいのは当たり前」と述べ、遺族への開示を認めた。
 ところが厚生省医療審議会ではいまだに「遺族に情報開示して、アメリカのような訴訟社会になってもよいのか」などの主張が日本医師会などから出されている。たしかに、これまで全くカルテ開示の実践例がないのならば、憶測を語ることも、憶測を根拠にすることも許されるかも知れない。しかし、現実には、いくつもの大病院を持つ大阪市のカルテが遺族に開示されるようになっても、全国でレセプトが遺族に開示されるようになっても訴訟社会にはなっていない。
 遺族からの開示請求は全て裁判がらみであり、医師・患者の信頼関係を築くことや医療の質を高めることとは無関係であるかのように決めつけてはいけない。私たちの「市民の会」には実際に、裁判目的でなくカルテやレセプトの開示を求めた遺族が何人もいるが、皆、真摯な説明を求めたのに拒否されたこと、要するに、カルテを見せてもらえなかったことこそに納得ができなかっただけなのだ。
 例えば、二年半前に大阪市が条例上の請求に応じて、初めて遺族にカルテを開示したときの事例はこうである。大阪市に住むこの母親は、3歳の長男の風邪が悪化したため休日診療所に連れて行ったが、大阪市立住吉病院に転送され即入院となった。夜になり、ぐったりとした3歳の子を一人にするのは不安であったが、看護婦に「決まりだから」と言われ、家族は自宅に帰らされた。そして、その晩「0時過ぎに看護婦が見回りに行ったら既に死亡していた」と連絡が入る。母親はしばらく何がなんだかわからなかったという。何度も医師に説明を求めたが、カルテに関しては「見せない決まりになっている」と言われ見せてもらえなかった。母親は、子どもがどっちを向いて寝ていたか、おへそは出ていなかったか、布団はきちんとかかっていたか、等、子どものことを何でも知りたいと思った、という。ところが、病院には「カルテを見て何をするつもりだ」という言い方をされたり、挙げ句の果てには「担当の看護婦も少しはショックを受けているのだからあまりいろいろと聞いてあげないでほしい」とまで別の看護婦に言われたという。もし、病院が母親に対して、見せられるものはすべて見せて、伝えられるものはすべて伝えるような姿勢を見せていたら、母親はどれだけ救われただろう。
 他にも、病院で亡くなった子どもの両親が、真相を知りたいという思いと共に、子どもが生きていた証としてカルテやエックス線などの一切の記録を遺品として残しておきたいという気持ちから、複数の病院のカルテを請求したケースがある。ここでもある病院はこの両親に対して「カルテなんか請求して一体何をするつもりだ」という言い方をしている。しかし、両親は別の病院のカルテを見て「改めて医者や看護婦の方々が懸命に治療してくれたことが分かり、本当に感謝の念が深まった」と話されている。
 結果が悪かったときほど、最も誠意ある説明が求められる。ところが、従来の情報非開示の常識ではそれがなされ得なかったのである。健全な医療者であるほど、遺族にきちんと説明をしておきたいと思うだろうし、そうすることで医療者と遺族の信頼関係が築かれ、両者が救われるだろう。ところが、「カルテは見せられません」と言うことでその機会を逸してしまうのである。「ご希望ならばカルテのコピーをお渡ししましょう」という言葉から始まる説明であればが、
「遺族は証拠保全でカルテを入手できるじゃないか」「カルテが見たいなら裁判所を通しなさい」こんな言葉が医療不信を高め医療訴訟を増やしてきたにもかかわらず、「遺族へ開示すると訴訟が増える」という理由で現在医療審議会において日本医師会は主張している。私たちは、今年2月末に、HIV薬害、ヤコブ薬害、スモン、クロロキン、サリドマイド、予防接種、陣痛促進剤などの15の被害者団体と共に、医療審議会に対して「遺族へのカルテ開示を求める要望書」を提出した。審議会では、この要望書を全委員に配布し読む時間が与えられた。今後の進展を見守りたい。

【医療者と患者の信頼関係とは何か】
 日本医師会は「私たちは自主的にカルテ開示に関するガイドラインを作成し、倫理としてカルテ開示をやるから強制しないでほしい」と法制化に強く反対すると共に「カルテ開示は医療者と患者の信頼関係を高めるために行うのであるから、治療が終わった場合は対象にしない。すなわち遺族への開示もしない」としている。
 しかし、真に求められているのは「必要なときには、カルテも全部見せましょう。」という『姿勢』であって、カルテそのものだけではない。同様に医療訴訟の提起も、決して結果に対してのみなされるのではなく、結果に至る過程での誠意のなさに対して起こされていると理解すべきである。
 そもそも、情報開示で信頼関係が損なわれることはあり得ない。なぜなら、信頼関係が十分に築かれていないからこそ、開示請求をするのだからだ。したがって、情報開示が、もともとあった不信感の証拠になったり逆に信頼回復や信頼関係育成の根拠になることはあっても、決して当初あった信頼関係を損なうようなことにはなりえない。「情報開示しない中で築かれていた信頼が、情報開示すれば崩れる」という主張は、「真の信頼関係とは何か」を考えてみれば、かなり不自然な理屈であることに気付く必要がある。
 現実に医療事故は起こる。ところが情報が閉ざされるなら、医療者や病院に反省する機会すら与えることができないだろう。私は、「死んだ子は返らなくても、せめてこの子の死をいかすためにも被害を繰り返さないようにして欲しい」と願った。遺族は皆同じ思いだ。遺族への開示から始まる反省こそが新たな事故の未然防止につながる。それだけに、遺族にも開示請求権を認めることこそが医療への信頼を築くことになる。また、実際に事故が起こっても、全てを開示しきちんと説明をしていけば、そのことで不信感が消えたり、訴訟まで至らずに解決するケースがこれまで以上に出るに違いない。
 患者や遺族は見たいときに見られる権利の保障を求めているのであって、日本医師会が主張する「順調にいってるときには開示するが、事故が起こったときには開示しない」という開示の供給方法は、開示を求める患者の需要とは全くずれている。
 日本の医療界は様々な問題点を抱えている。したがって、「情報開示すれば患者の誤解を招くおそれがある」という意見も出される。しかしこれは偏見であり、患者を信頼していない。信頼関係というなら、もっと患者を信頼して、きちんと丁寧に正確な情報を提供し、現状を説明していくべきではないか。たしかに現状に自信のない医療者ほど情報が公になっていくことに不安を感じるのかも知れない。しかし、そんな現状を変えていくための第一歩が情報公開なのである。情報開示が改革を促すのであり、現状を理由に改革に疑問を投げかけるのは本末転倒である。
 情報開示によって、良い部分も悪い部分もすべて隠していた時代から、良い部分が認められ、悪い部分が陶太または改善されていく時代へと進んでいってほしい。

【おわりに】
 今は、保険者へ請求すればレセプトが本人や遺族に開示される。地方自治体では開示請求権を認める条例が次々に制定され、全国の都道府県で情報公開条例が、そしてついに国の情報公開法も制定された。つまり、自分が受けた医療費の明細や、自治体が持つ病院情報や厚生省が持つ行政情報などを知ることができるようになってきたのであり、既に外堀は埋められたのである。そしていよいよメインである医療者と患者の間にあるカルテなどの情報開示の番だ。
 日常の医療で私たちが求めるのは、患者が自己負担分を支払う際に、病院窓口でレセプト相当の詳しい明細書が手渡されること。さらに、検査結果や自分の病状などがわかりやすく母子手帳のような診療手帳に記入され、それを持ち帰れること。さらに、重大な医療行為が施される前や、結果が悪かったときには、カルテや看護記録も全て見ながら説明を受けられる権利やそれらのコピーも受け取れる権利が保障されて、転院やセカンドオピニオンに利用できること。そして、それらを基盤にした真のインフォームドコンセントがなされることである。

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