「レセプト開示は病院の窓口でも」
(朝日新聞 『論壇』 2000年6月30日)
医療情報の公開・開示を求める市民の会
事務局長 勝村久司
現在、国民医療費は歯止めなく膨張し、健保組合等の保険者の財政はまさに危機的状況だ。しかし、医療費の中身には不明瞭な部分が非常に多い。
そもそも、病院窓口で自己負担分を支払う際に受け取る領収書には、投薬量いくら、検査料いくら等の小計が記されているのみで、何という薬をどれだけ使ったか、単価はいくらか等の詳細を知ることはできない。詳細な明細を記したレセプト(診療報酬請求明細書)は、医療機関から直接、健保組合などの保険者に送られるが、厚生省は長い間、これを患者には見せないよう指導していた。
一般に社会では、明細のない請求に対して簡単にお金を支払わない。ところが医療においては、全ての国民が明細を知らないままお金を支払い続けて来たのである。
ようやく厚生省が、医療被害者たちの情報公開を求める声に押され、患者本人から請求があればレセプトを開示するよう全国の保険者に通達してから3年になる。しかし、その後も医療費の中身を明朗にしていく努力を厚生省は怠ったままだ。
例えば、窓口での自己負担分の払い過ぎが月に1万円以上ある場合は、本人に通知されることになっているが、昨年、それを約半数の保険者が実施していないことが発覚した。しかも、1年経った今もほとんど改善されていない。
更には、富士見産婦人科事件を機に、行政による監査で、医療機関が過剰に受け取ったお金を保険者に返還させる際には、患者の自己負担分も返還させることになったが、監査と同様の個別指導によって保険者に返還させる場合の、患者本人への返還は一切なされていない。
また、「レセプトでは単価が205円以下の薬剤については数量がいくらであっても明細を記さなくてもよい。」とするいい加減なルールが不正請求の温床になっているという専門家の指摘を何度も受けていながら、厚生省は放置したままである。
他にも、2年前、朝日新聞の報道を機に、厚生省保険局長は国会で「レセプトが減額査定された場合には、患者本人にも払いすぎた自己負担分を返還するシステム作りに着手する。」と言いながら、現在でも全く着手していないことが、市民団体の厚生省交渉で明らかになるなど、医療費はまさに丼勘定だ。
健康保険証はクレジットカードと同じである。クレジットカードで支払いをする際には、必ず商品名、単価や数量などの明細を確認してサインをする。そして、その写しが手渡される。同じように、医療機関の窓口で自己負担分を支払う際にも、レセプト相当の明細書を患者が確認の上サインし、その写しも手渡すようなシステムを作るべきだ。
情報公開の時代には、専門家に任せてしまわず、市民一人一人が確認していく制度が望ましい。現状でも、レセプトは第三者の専門家がチェックしていることになっているが、一部の専門家たちに国民全てのレセプトをチェックすることは物理的に不可能だし、第三者が架空や水増し請求をチェックすることは論理的に不可能だ。
厚生省が集めた専門家がいくつもの審議会などで何度も医療保険制度の改革を論じたが、結局、医師会や製薬企業などの利害調整に終始し、抜本改革はできなかった。市民に情報を与えず専門家の密室の決定を下に降ろしていくやり方をいくら繰り返しても、本当に必要な改革はできないのではないか。
厚生省が、今後も、不明朗な医療保険制度を改善する努力を怠るなら、次々と発覚する医療機関の不正請求、さらには国民の健康よりも金儲けを重視した薬害や医療被害は、いつまでたっても過去の話にならないだろう。日本の医療は、薬漬け・検査漬けと言われて久しいが、医者の側からも、薬価や検査費に比べ技術料や人件費が低い等の、診療報酬の問題を指摘する声は多い。
利害を代表する専門家が決めてきた「医療の価値観」を決める医療の単価(診療報酬)が、消費者のニーズとどれほど隔たりがあるかを明細書の提示で明らかにし、消費者自身が健全な医療保険制度の確立に向けた議論に参加できるシステムを作ることこそが、唯一、抜本改革の実現につながる道ではないか。
医療費を請求する医療機関には明細を提示する義務がある。明細を情報提供する前提があれば、必然的に、日常の診療において、カルテを間にはさんだ真のインフォームドコンセントが実現するだろう。
特に、電算化の進んだ国立病院では、窓口での自己負担分の計算時に、既に医療費の詳細は打ち込まれているのであり、プログラムを少し変更するだけでレセプト相当の詳細な明細書が簡単に発行できるはずだ。電話会社が料金請求の際に行っているように、どの程度に詳細な明細を希望するかを消費者に聞き、ニーズに合わせた明細書を発行することも可能だろう。保険料や自己負担分の増額を強行する国には、医療費を透明化・健全化する責任がある。国立病院が率先して病院窓口での明細書提示をして行くべきではないか。