第4回薬害根絶フォーラム
『第1部』
「知ってほしい薬害発生のメカニズム」


2002.11.16(土) 13:00〜17:00
大阪大学 コンベンションセンター


− 開会 −

総合司会 村田忠彦


村田: みなさん、こんにちは。今日は秋晴れの、本当に紅葉狩りの一番いい季節なんですが、この薬害根絶フォーラムにご参加いただきまして、ありがとうございます。私、今日総合司会を勤めます、スモンの会全国連絡協議会から薬被連の方に派遣されております、村田忠彦と申します。ご協力、よろしくお願いいたします。では最初に、本日の主催者を代表いたしまして、全国薬害被害者団体連絡協議会の代表者理事をやっております、花井十伍の方からご挨拶を申し上げます。じゃあ花井さん、よろしくお願いします。

花井: こんにちは。今日は今言いましたように、絶好の行楽日和の、秋晴れの空の下、行楽地に向かわずに、私たち薬害被害者団体連絡協議会、略して薬被連の薬害根絶フォーラムにお越しいただき、ありがとうございます。薬被連は、薬害被害者団体だけで構成される、日本でただひとつの連絡協議会でございまして、当事者だけが構成メンバーになっております。薬害根絶フォーラムは、もともと京都に端を発しまして、今回正式になって第4回なんですけども、久しぶりに、東京・横浜と参りまして、関西に帰ってまいりました。関西に戻ってきたということもありまして、原点に返りまして、薬害被害の被害実態と、そこから得られた教訓というものを、是非是非皆様と一緒にそれを共有して、これからの安全な薬事行政や医療について、考える機会に出来たらと思います。最後まで、よろしくお願いいたします。

村田: 今から第1部の討論に入るわけですが、その前に、皆さん受付で、この資料をお渡しいたしました。この資料集の中に、こういうちっちゃい紙がありまして、資料番号といういうことで説明しておりますが、この書いた以外に本日封筒の中に慌てて入れたという資料が入っておりますので、ちょっとご説明だけしておきますと、3種類追加して入れております。Fとして、「義務または協力義務うんぬん」という資料が入っております。MMRの資料でございます。もう1種類は、「和解確認書より抜粋」という肩書きをつけた資料があります。これはサリドマイドとか、スモンだとか、薬害ヤコブなどの加害企業、国と和解確認書を作っておりますが、それを抜粋をした資料を入れております。もう1種類は、これが一番肝心なんですが、「ご感想をお願いします」というB5版の紙を入れております。これは、集会が終わりまして最後にですね、ご記入いただいて受付で回収させていただければ、非常にありがたいなということで、また改めてその時は、お願いを致したいと思います。一応資料のご案内は以上でございます。各種団体が今から色々報告いたしますが、その資料集の中の、例えばHIVの報告があるときには資料番号3番のHIVの資料にも目を通していただきながら聞いていただければ、非常にご理解を深めていただけるんではないか、かように考えます。以上で資料の説明を終わりたいと思います。では、本題に入りたいと思います。
第1部、薬害被害の実態報告。各種団体からこの5人が、交代ごうたいで最初ご報告致しますが、1番最初はサリドマイドの被害者の方から、鳩飼きい子さんからお願いしたいと思います。では、よろしくお願いいたします。

− 第1部 薬害被害の実態報告 −

サリドマイド 鳩飼きい子さん

− 知っていたはずなのに・・・ −


鳩飼: 鳩飼と申します。サリドマイド被害者の母親でございます。被害者本人ではございませんが、私が妊娠中にあの薬を飲みまして、子どもに大きい障害を負わせてしまったという引け目とか責任なんか感じながら、この40年を過ごして参りました。子どもは今年ちょうど満40歳になりますので、ちょうど40年前の事件ということになります。ですからもう、あの事件のことはご存知ない方も多いと思いますので、ざっとあの事件のあらましをお話させていただきたいと思います。
私方の子どもは昭和37年の8月に生まれておりますのですが、それより1年ほど前に、ドイツのレンツという遺伝学者なんですけど、その方がサリドマイドという鎮痛睡眠剤を妊娠初期に妊婦が飲むと、ほぼ100パーセントの確率で胎児に重篤な奇形をもたらすという、危険な副作用があるといういことを警告しておられます。その警告は、日本の厚生省もそれを製造販売していた企業側もキャッチしていたはずでございます。絶対知っていないということはなかったはずですが、完全に無視しました。無視したということは、もう今更説明するいうこともないと思いますが、とにかく薬売らんならんから無視したということですわね。一度認可した薬をそうたやすく引っ込められないという官僚のメンツと怠慢、販売以来会社のドル箱になっていた製品をそんな一介の外国の学者の警告だけで販売停止にはできぬ、という企業側の打算、それが手を結んで被害を拡大したという構図、その後続出している薬害の構図と全く同じです。
サリドマイドの場合は無視したというよりも、それから以後、とにかく売りに売りまくったという事実がございます。あれはやっぱりやばいなあというような予感があったんではないかと思いますが、宣伝に宣伝を重ねて、一年間売りまくりました。今のようにパソコンのインターネットもない時代、何の情報も入らない一般の妊婦は何も知らないまま、夢の鎮痛睡眠剤として妊娠中の不快は症状をやわらげるためこの薬を飲みました。今サリドマイドの礎に登録されている被害者の300何人の約半数は、その期間に生まれております。

− 抑圧から裁判への目覚め −

鳩飼: うちの子どももその期間に生まれたんですけれど、まあ日本という国はいいとこもあるんですけど、陰湿な風土もございまして、奇形の子どもなんかが生まれますと、やっぱり世間がいろいろと噂いたします。障害児、とくに奇形などの子どもに対する差別偏見は40年前は現在よりもっとひどいものでして、遺伝と違うかとか、心がけが悪いからああいうのが生まれたんやないかとか、色々言われて親たちは苦しみ、そして家の中で隠れて子どもたちを育てていたという期間がございます。外へ出るのが恐ろしかったです。それでもだんだんと発声数が増えてきて、徐々に奇形の原因が突き止められ、また新聞がぼつぼつ書くようになってきました。その新聞記事を見て、親の中から実名で名乗りをあげるような人が出てきまして、その人にすがってみんなぞろぞろと全国から出てきたという、そういうような形でございます。その当時、私たちの訴えに先ず耳を傾け、好意のある声援を送ってくれましたのが、マスメディア、特に新聞でした。あのころの新聞社、新聞社というよりも、個々の新聞記者の方たちは、大変節度のある取材をなさいまして、今のテレビと違って猟奇的な事件として扱わず、重大な社会問題としてサリドマイドに目を向け、正確に勉強なさって、正確な記事を出してくださったと思います。テレビはまだあまり一般に普及しておりませんでした。私ども新聞記事によってそれぞれ個別に確信をかため、みんな結ばれていったというような、そういう感じでございます。この意味で、当時の新聞記者の方々の節度ある取材、正確な情報提供に、私は大変感謝を致しております。
それで親が集まって、企業側に働きかけて、企業は薬を引っ込めたと、そういうようなことなんですけど、薬は引っ込めたもののそれだけのことで、因果関係を認めるとか責任を認めるということはありませんでしたので、親はだんだんと腹が立って、会社へ行って水ぶっ掛けられたり、警察を呼ぶと脅かされたりして、無念の涙をのんで引き下がったというような一幕もありまして、だんだんと腹が立ってきて、それやったら裁判しかないんと違うかということで、提訴ということになったわけで、最初から裁判やるとか、賠償取ろうとかそういう発想は全くございませんでした。集まってもそういう話は出たことはありません。
また、サリドマイドの奇形は大変珍しい、特別なもので、何十年も産婦人科をやっているお医者さんも、産婆さん、助産婦さんもですが、そういう人も初めて見たというような奇形、私がたの息子の耳の奇形も小耳症と呼ばれるものなのですが、普通今でも何万人に1人自然発生的に生まれているというのとは違って、レンツの診断書には『この奇形はサリドマイドの典型的なもので、サリドマイド出現以前の文献には全く記載されていない』というような言葉がそえられております。つまり人類始まって以来初めて出現した奇形ということで、どこの医療機関へいっても珍しがられ、治療の方針も立ちませんでした。腕の奇形の人たちも同じで、親たちはまずそのことで苦しみ、遺伝だとか何とかいう世間の人の言葉にも傷つき苦しみ、これら怨念も裁判提訴へとつながるものだったのだと思います。結果として時効ぎりぎりになって、少数の家族が集まって東京地裁へ提訴した、そういうようなことでございます。

− 薬害、サリドマイド被害がない社会へ 〜願い〜 −


鳩飼: そしてまあ裁判の間にたくさんの支援者が集まってくださいまして、帝京の木田先生はじめ、お医者さんとか科学者もたくさん立証してくださいまして、わたしどもそういう方に支えられて裁判をやってきたわけですけど、やっぱり延々10年かかりまして、やっと和解という形で決着したんですけど、私は、サリドマイド裁判は薬害第1号とされてるわけですけど、その原告として、やっぱりあれは和解で決着したということについて、とても反省しているところがあるんです。私どもが最初で最後の薬害であるように念じてきましたのに、その後薬害が根絶することがなく、こうして続々と発生するというのは、サリドマイドのときにきっちりと判決を取って向こう側に謝らせておけば、こういうことではなかったんでないかな、ちょっと形も変わってきたんでないかなと、今そういう反省をいろいろしているんですけれど、まあ仕方ありません。もう済んだことです。
私はこないだ73歳の誕生日を迎えたのですけど、自分の人生もうあんまりないと思いますが、振り返ってみますと、やっぱりいろいろ大変なこともありましたけれど、いい人生やったなあ。特別なことをして、特別な勉強もさせていただいて、たくさんお知りあいも出来て、いい方とめぐり合えてよかったと、私は今感謝の中で暮らしているのですけど、子どもはなかなかそうは参りませんで、やっぱり死ぬまで障害を持っていかななりませんので。うちの子どもは小耳症いいまして、もう耳がありません。両方耳がありませんで、高度難聴・言語障害、それから顔にも色々奇形がございます。それで就職とか大変でございました。結婚も大変でした。就職13年やったんですけど、リストラ、まず一番に飛ばされまして、結婚も失恋ばっかりで可哀想で。私は主人が早く亡くなりまして2人で住んでましたんで、親子心中しよかと思ったこともあったぐらいなんですけど、幸い7年ほど前にかわいらしい嫁さんが来てくれまして、2人で重度障害脳性まひの方の介護職員として、今社会の隅でほそぼそと働かせて頂いているということでございます。
もうひとつだけすみません。サリドマイドがある種のガンなどに効くといって最近復活してきたということを、みなさんご存知やと思いますけど、これはもう大変恐ろしいことで、こないだ密造している会社が挙げられておりますね。ああいうことは本当に恐ろしいことで、早く厚生労働省が手を打って、正規のルートでちゃんとした医療現場で使うなら使うというふうにしていただかないと、また大変なことになるんでないかと思います。みなさんそのあたりのところをよくよくとお考え下さいまして、あの薬の行方を見定めていただきたいと思います。えらいすいません。超過いたしました。

村田: どうもご苦労様でした。サリドマイドの被害の実態報告、鳩飼きい子さんでございました。続きまして、キノホルム薬害で有名になりました、スモンの被害者、平生百合子さんからの報告をお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

スモン 平生百合子さん

− 発病、そして闘いの日々 −

平生: 私がスモンに発病したのは、青森で昭和40年14才のとき、腸の病気で入院、手術しました。経過は良好で退院して通院、薬を飲んでいました。
    12月8日で薬をもらうために待っていた薬局の前で、意識をなくしてそのまま入院。3日間意識不明。意識を取り戻してからも、看護婦さんがついて、朝昼夕の食後の薬を、飲みました。というよりは、飲まされていました。それが、整腸剤の「キノホルム」でした。3倍も多く飲まされていました。10日ほどすぎた日、足の先がしびれているのに気が付いて主治医に訴えましたが、とりあってもらえませんでした。歩いているのを後ろから見ていた看護婦さんが「歩く姿がおかしい。まるで酔っぱらいの千鳥足のようだね」と云われました。足のシビレが甲から足首に上がるにつれて、歩けなくなり、廊下の手すりを持たないとまっすぐ歩くことができませんでした。トイレで立てなくなり、それっきり動けなく寝たきりになりました。その時のシビレは胸のところまで上がってきていました。それでも主治医は「大丈夫、すぐ良くなるから」と、言うだけでなにもしてくれません。
    15才の誕生日を迎えた頃、付き添っていた母が「おむつが緑色になっている、便も緑色をしている」と、看護婦さんに言いました。それからあわてて検査が始まり大変でした。
    正月をすぎたある日、見ていたマンガの本が急に見えなくなりました。まるで牛乳の中に、つき落とされたみたいに真っ白になったのです。その時のシビレは顔まで上がっていました。手もシビレてきました。
    私は「目も見えないし、手もシビレてきたし、このまま寝たきりになるのか?」と、ものすごく不安になり、何日もベットの中で泣きました。
    でも、もう一度歩きたい、学校にも行きたいの想いでリハビリをしました。赤ちゃんからのやり直しです。寝返りができ、ベットの上で起き上がり、おすわりができ、はいはいができ、つかまり立ちができても手を離すことはなかなか出来ませんでした。手を離すことができても、すぐに転びます。こんどはなかなか立ち上がれません。歯をくいしばり、泣きながらのリハビリでした。病院から身体障害者施設あすなろ園へ、リハビリにタクシーで通いました。なにも感じない足なので、寒い日でも素足にぞうりをくくりつけて歩く訓練をしました。すこしでも感覚がわかるようにと。
    熱いとか冷たいとかがわかりません。足に熱湯をこぼして火傷をしていてもわからないのです。画びょうをさしたまま歩いていたこともあります。このようなことを何回も繰り返しました。
    歩けるようになっても「いつ、また」という思いは今でも消えません。薬害の患者は、後遺症と合併症の大きな不安を持ちながら、一生いきていかなければなりません。
    スモンは過去の病気ではありません。スモン患者は、いまだに苦しんでいます。このような悲惨な薬害は起こさないで下さい。
    終わります。

村田: スモンの訴えでございました。今皆さんからは見えないと思いますが、彼女は車椅子で座ってるんですね。そういうことで今でも歩くのに非常に苦労する立場でございます。では続きまして、近畿地方を中心にして起こりました、筋短縮症の被害者の訴えです。若山法子さん、お願いします。

筋短縮症 若山法子さん

− 赤ちゃんとひきかえに −

若山: 京滋筋短縮症の会事務局の若山と申します。本日の報告は、会員の中でも重症のためこのフォーラムにも出席できない女性が、会報に投稿された彼女の現在の生活体験を私が代読させていただき、筋短縮症被害の実態を皆様に知っていただきたいと思います。

    前文失礼致します。お役ご苦労様です。本当ならば総会に出席して、私の足の障害の進行状況をお話したいですし、今どれだけ不自由な暮らしをしているかも体験談としてお話したいです。15年前に精神を非常に病む出来事がありまして、自律神経失調症から軽うつ病、神経症へと進んでしまいました。外出することもままならず人が集まる所へも出向くことができませんので、総会等に出席することが出来ません。簡単ですが、体験を書かせていただきます。
    短縮症と分かり学生時代は多少の不便さやびっこがあっても、さほど苦にはなりませんでした。結婚して妊娠してから、「私は足が悪い」と自分ではっきりと自覚することができました。妊娠してだんだんお腹が目立ってきますと、どの妊婦さんでも同じですが、背をそらす姿勢となります。大きいお腹をかばいながら背を反らす姿勢は歩きにくく、どうしても悪い足をかばってしまいます。その為、腰痛がとてもひどかったです。痛み止めが欲しいくらい痛かったのを覚えています。問題は分娩台です。寝て両足を足置きに曲げて乗せる姿勢をとるのですが、私には寝て足を曲げることは出来ませんでした。でも、いざ産まれる時になると、力むため足の置き場がどうしても必要になります。無理やり足を曲げて足を置くと、腰が分娩台につかず浮くのです。そういう無理な姿勢をしなければいけなかった為、20才で母親となったのですが、20才の若さで腰痛もちとなりました。産婦人科の医師にも、事前にちゃんと足の障害の事は言いました。でも医師は、その障害の病名すら知りませんでした。そういう出産を2度経験したため、第2子出産後は毎日毎日が腰痛に悩むようになりました。いつもシップを貼っています。痛み止めを服用することもあります。分娩台の姿勢に無理がある方は、医師に必ず障害の事を言われて、帝王切開にされるべきです。

− 「日々」との闘い −

若山: 主婦となれば、あまり運動する機会がありません。その後約12〜13年ほど経って、35才過ぎ頃から四頭筋の筋肉のつっぱりや痛みが出るようになり、今度は腰痛に加え足の痛みにも悩まされるようになりました。足が痛みますから、歩行もだんだん困難になってきます。やはり自然と足をかばうのでしょうか?次は膝まで痛みが増してきました。そして筋力の低下から10mも歩くと腰痛・膝・足の痛みが襲ってきます。自転車をこいでも同じです。だから自転車にも乗れなくなりました。足を使った後は、足がけいれんを起こすようになりました。去年あまりにも足・膝の痛み・足のけいれんがあるため、整形外科を受診しました。歩行困難と診断され、外出は車椅子を使用するように言われ、今外へ出るときは車椅子です。医師は、「リハビリをしても、いい結果は出ないでしょう」との返事でした。
    座る姿勢は両足を伸ばして前に出します。でも長時間この姿勢で座っていると、背中痛が襲ってきます。1〜2時間座り、背中痛・腰痛のため、しばらく横にならなければなりません。家の中で生活していても、あまりにも足の筋肉の痛みがひどい時には、一歩も歩くことができない時があります。お恥ずかしい話ですが、もらしてしまう事も多々あるのです。ですから部屋にトイレ代わりにバケツを置いています。お食事の支度をしようと思っても、台所に10分も立っていれば、足にけいれんが襲ってきます。そのため食事作りが思うように出来ません。足にこれ以上の無理をかけないために、お夕飯は宅配のお弁当を取ることにしました。階段の上がり下がりも思うように出来ません。我が家はエレベーターがなく、3階に部屋があるので、1人で階段を下りる時はよほど痛みがない時だけです。そのため部屋に閉じこもりとなってしまいます。1人で車椅子を持って1階まで下りることは不可能です。

− 家族の理解がエッセンス −

若山: 一番大切なのが家族の理解と助けです。私の場合、主人が買い物・洗い物と障害を理解し、助けてくれるので本当に助かっていますが、私のように障害がひどく家事にまで支障が出てくると、どうしても家族の理解と助けが必要になってきます。主人が助け理解してくれる人でなければ、わたしは足の障害のため、離婚されていると思います。簡単ですが私の体験談と、今の不自由な生活ぶりを書かせていただきました。会員の皆様の、何かのお役に立てれば幸いです。

    以上、代読させていただきました。幼児期の過剰注射によって、結婚して楽しい家庭生活を夢見ていた彼女は、今日常生活において、身体的にも精神的にも苦しい毎日です。私も被害者の1人ですが、年齢の経過とともに、いわゆる2次障害についても、他の会員たちと将来に不安を抱えております。私たちは、2度とこのような被害が起こらないための活動と、被害者の救済や運動を進めてまいります。ご清聴ありがとうございました。

村田: どうもご苦労様でした。今の報告者は若山法子さんでした。続きまして、HIV、エイズとも言われておりますが、HIVの被害者の実態報告をしたいと思います。小林アキラさんです。よろしくお願いします。

HIV薬害訴訟原告 小林アキラさん

− 薬害エイズは過去のもの? −

小林: どうも、こんにちは。今回こういう場を設けさせていただいて、大変光栄なんですけども、今年ちょっと新しい病院にかかりまして、そこで最初に問診っていうのをやるんですけども、その時に今年の4月から就職された看護婦の方が,僕が血友病だって言ったら、ここにいる皆さんは多分ご存知だと思いますが、血友病っていったら遺伝病でして、産まれたときから血友病なんですけども、そこでその看護婦さんが言った言葉が、僕ちょっとびっくりしたんですけども、「小林さん、血友病は何歳からですか」って聞くんですよね。ここの大学付属病院は何を教えてるんだっていう気持ちで、「血友病だから、生まれつきに決まってますよ」って言ったんですけども、そしたら、「それじゃあ、エイズの方も生まれつきですか」って聞くもんだから、またたまげて、「若い世代では薬害エイズなんてのは過去のことになってるんやなあ」っていう思いがして。大体僕30過ぎてるのに、「30過ぎて生まれつきエイズっていうことは、コンゴ生まれのコンゴ育ちなのか俺は」、と思って、飲んでたお茶を鼻から吹きそうになったんですけども。まあそれはそれとして、僕の経験談を少し話さしていただきたいと思います。

− 言行不一致・・・? −

小林: 僕がはじめてAIDSの記事を目にしたのは、今から約20年前、僕が中学に入る直前のことでした。そして、この、その当時は本当に謎の奇病だったのですが、それが同性愛者の他に、血友病患者の中からも見つかったという記事が後に続きました。これは、アメリカでのことです。当時の主治医に血液製剤の安全性について尋ねたんですけども、その時の主治医の説明が、「交通事故に遭うよりも低い確率だ」と説明されたんですけども、今にして思えばそれは、具体的な論拠に基づくものではありませんでした。その後、新聞等で記事が連日続くようになって、AIDSは血液・体液によって感染するらしいこと、それから海外国の売血を利用している血液製剤は危険であること、そして海外の海外の血友病患者は加熱製剤を使い始めていることが判ってまいりました。また、新聞紙上では、安部英帝京大学教授の談話として、血液製剤の加熱化、国内受給体制の確立が望ましいということを掲載しておりましたので、「もう日本では対策がなされてるんだなあ」と思って、一旦は安心したことを覚えています。しかし、現実はそうはなりませんでした。却って当の阿部英教授によって、加熱製剤の導入が故意に遅らされることになりました。
それで、今までの体験を通じて感じたことを申しますと、私たちは自分たちが使いたい薬で、それが海外で広く使われている薬であっても、自由には使うことができないんですね。どういうことかというと、海外で広く使われている有益な薬剤であっても、日本ですぐに使うことは、手続き的な面で、原則としてできないんですね。これは、海外で広く使用されている薬でも国内で使用するためには、治験という手続きを踏むことになります。新しい薬剤を使用するためには、それが本当に日本人の体質に合うのかどうかを確かめるための、最終的な治療試験、それを治験といいます。この治験から薬剤の実際の承認までには、長い時間がかかりまして、10年程度かかるものはざらなんですね。でも、我々が汚染されてない血液製剤を望んだ場合にまで、こんなに長い時間をかけていたんでは犠牲者が増えるばかりでした。

− フレキシブルな対応を −

小林: 実際加熱製剤の導入に際してもその承認に何年もかかった結果、より多くの患者が感染していきました。本来、厚生省が新薬を承認があるまで使わせないのは、安全性が担保されないことを理由とするのですが、加熱製剤の場合は安全な加熱製剤の使用を許さずに、安全性の担保されていない危険な非加熱製剤の使用しか許さないという皮肉な逆転現象を生じさせてしまったんです。そして、HIV治療においても海外で広く使われていた薬剤が国内で使用できないという状況が続いていました。最初に2つの薬が出たんですけども、AZTとDDIについては迅速承認が認められたにも関わらず、後続の薬剤がなかなか認めてもらえなかったんですね。
HIVウイルスは薬剤に対する耐性、薬剤耐性というんですけども、ある程度飲んでいるとウイルス自体がその薬に対する耐性を持ってしまって、その薬が効きにくくなるんですね、ウイルスに対して。その場合は新薬の導入が急務となるんですけども、ところが新薬の導入は止まったままでした。現在では治験における国際的な基準を確立しようという動き(ICH)も、遅まきながらも出てきました。ここにいる皆さんは、何で今までそういった世界的な治験の基準がなかったんだと思われるかもしれませんけど、これはこの治験制度が国内の弱小薬品企業を保護するといった産業政策的一面も持っていたからなんですね。つまり、国民の健康保持に必要な薬であっても、それを外国企業が独占販売することで、国内企業が不利益となることがないように、厚生省が承認・認可権を行使して調整する役割があったんですね。これは、政府からしてみると、国内企業の保護育成という一面があったのかもしれませんけども、本当に私たち国民のためになっているのか、ということをすごく疑問に思いました。
薬害エイズ裁判での和解内容のひとつとして、抗ウイルス剤の早期承認・認可制度が認められましたけども、でもこういう緊急を要する薬剤の承認・認可は本来であれば和解の有無に関わらず、必要があれば厚生省が率先して認めていくべき問題ではなかったのかと思います。実際に、欧米ではプロテアーゼ阻害剤の登場によって死亡者は激減したのですが、日本では1年遅れになったために、その間にまた多くの感染者が亡くなっていきました。

− 積極的サボタージュ −

小林: ちょっと僕が問題に思うのは、薬害エイズ訴訟においては、その論点のひとつに、加熱製剤の早期承認が可能ではなかったかということが争われました。そのことが、結局抗HIV薬剤の承認を遅らせる結果となったのではないかと思わざるを得ません。なぜなら、裁判の途中で抗HIV薬剤の早期承認認可を認めれば、過去の加熱製剤における早期承認も可能だったのではないかという追及に繋がることを、行政は恐れたのではないかと思うのです。少なくとも、裁判で争点になっている事項については、積極的サボタージュとまでは言えないまでも、行政が積極的な救済を手控えてしまうということは本当にないのかな、と思います。
最近裁判で和解が成立した薬害ヤコブ病においても、厚生省は1997年の使用禁止までの間、硬膜移植によるヤコブ病伝達の危険性に関する多くの論文や報告があったにも関わらず、全く何の措置も取りませんでした。更には、さかのぼるんですが、1987年、硬膜移植後にヤコブ病を発症した第1号患者の報告論文が発表されました。アメリカでは、その年にライオデュラっていう硬膜の使用が禁止されています。しかし、厚生省は、このときも何もしませんでした。これも薬害エイズ裁判が行われていたがために、無意識のうちにサボタージュが行われていたのではないかと思うと、ちょっと恐ろしい感じがします。
それほど厚生行政の意識が低いとは思いたくはありませんけども、薬害エイズ裁判の和解を契機としてしか新薬の早期認可が認められなかったという事実、薬害エイズの裁判中にヤコブ病の発生防止に何の手も打たなかった厚生省の無策を鑑みるに、大変に疑わしいと思います。

− よりよい薬事行政は犠牲の上に? −

小林: さらには、治験の費用は企業の全額負担となります。また、企業は営利法人ですから、患者数が少なくて利益的にペイしないような薬は、日本では売りたがらないということもありうるんですね。この不都合を回避しようと、薬剤の緊急輸入制度がHIV薬剤以外にも認められてきましたが、現実に海外で使われている有効な薬剤が未だに国内での認可が認められていないという例は、山のようにあります。過去、薬害を契機に薬事法が改正を重ねられてきましたが、今回の薬害エイズでは厚生省内の薬務局が廃止されました。これは薬務局が司っていた薬の承認・認可システムが国民の健康を守るという本来の目的とは別に、前述のように産業政策的に運営されていたという反省に基づくものです。このように薬害を繰り返していかないと、薬務行政としてのあるべき姿が確立されていかないのは、どうかなと思います。以上です。

村田: どうも、ご苦労様でした。HIVの小林アキラさんでした。では最後に、陣痛促進剤の被害者の訴えです。出元明美さん、お願いいたします。

陣痛促進剤 出元明美さん

− 成果 〜警告欄の添付文書改訂〜 −

出元: みなさま、こんにちは。愛媛から参りました。18年前のことですが、私自身が陣痛促進剤を使用して、分娩誘発中に子宮破裂という、重大な分娩事故に遭ったことをきっかけとして会を作りまして、陣痛促進剤の被害をなくすために活動を開始しまして15年目になりました。そして、厚生労働省との交渉も11年目に入っています。その間、陣痛促進剤の添付文書、いわゆる効能書きですが、そういうものが使用法や注意事項が何度となく改訂になりましたが、本当に現在もなお、進行形で被害が発生しているという状況です。警告欄が、赤枠・赤字で、たくさんのものが記載されています。
資料で2ページの半分から下のところに、警告欄というものを今回掲載しています。これは、去年の12月に改訂になった、オキシトシン製剤の添付文書の警告文です。警告の冒頭に、「本剤を分娩誘発、微弱陣痛の治療の目的で使用するにあたって過強陣痛や強直性子宮収縮により、胎児仮死、子宮破裂、頚管裂傷、羊水塞栓等が起こることがあり、母体あるいは児が重篤な転帰に至った症例が報告されているので、本剤の投与にあたっては以下の事項を遵守し慎重に行うこと。」と書かれ、さらに4項目が記載されています。
(1)として、「患者及び胎児の状態を十分観察して、本剤の有益及び危険性を考慮した上で慎重に適応を判断すること。特に子宮破裂、頚管裂傷等は経産婦、帝王切開あるいは子宮切開術既往歴のある患者で起こりやすいので注意すること。」と記載されています。
(2)として、「分娩監視装置を用いて胎児の心音、子宮収縮の状態を十分監視すること。」と記載されました。これまでは、「分娩監視装置などを使用して」という文章でした。私たちは、厚生省交渉で10年来ずっと要望してきていましたが、それがやっと実現した、ということになります。どの分娩でも十分な監視をするに越したことはありませんが、陣痛促進剤を使用した場合は、特に分娩監視は厳重にする必要があるわけです。
(3)として、「本剤の感受性は個人差が大きく、小量でも過強陣痛になる症例も報告されているので、ごく小量からの点滴より開始し、陣痛の状況により徐々に増減すること。また、精密持続点滴装置を用いて投与することが望ましい」と記載されています。ごく小量ということはどんな量かといいますと、例えば一般的な点滴でしたら、大体1分間あたり60〜70回くらいぽとぽとぽとっていう感じなんですが、このオキシトシンの場合には、1分換算しますとわずか1.5〜3滴です。1分間にですよ。だから、ものすごくゆっくりなんですね。ですから普通の点滴設定では使用が出来なくて、この精密持続点滴装置、インフュージョンポンプとも言いますが、そのようなものをを使用することが望ましい、という文章になっています。このように1.5〜3滴から開始しまして、40分間はそのまま増量せずに監視を続け、分娩の進行がない場合には、やはり3滴ぐらいから増量するということになっています。
(4)として、プロスタグランジン製剤、これは点滴用のPGF2αというものと、内服の錠剤のPGE2というものがありますが、それらはオキシトシンと同時併用してはいけないという文章が入っています。また、前後して投与する場合も、過強陣痛を起こすおそれがあるので、十分な分娩監視を行い、慎重に投与すること。最後に、「本剤の使用にあたっては、添付文書を熟読すること。」とあります。この、「熟読すること」は当然のことなんですが、全く読んでいないとしか思えないような使用法をしているような医師も、全国にまだまだたくさんいる、という現実があります。

− それでも起こる、被害、被害 −

出元: 資料の3ページに、陣痛促進剤被害の実態ということで、事例を3ページと4ページで合計5人の方を報告しております。まず、3ページの事例1をご覧下さい。平成10年、過強陣痛から子宮破裂したという分娩事故なんですが、第1子の分娩が帝王切開だったことを考えると、警告(1)で記載されている「有益性及び危険性を考慮した上で、慎重に適応を判断した上での陣痛誘発」ということとは、とても思えないということだと思います。そして、分娩監視装置も全く使われなかったという杜撰なケースでした。現在、係争中です。
次は、禁じられているアトニン0の筋肉注射を2回され、赤ちゃんが仮死状態で生まれたケースですが、ここの産婦人科で分娩した、被害者の姉妹や親戚の方たちも同じように筋肉注射をされたという風に聞いている、ということです。
事例3は、児頭骨盤不適合といいまして、お母さんの母体が胎児の頭に比べまして狭くて、胎児の頭が通過しないというような場合とか、胎児の向きが横になったり、というように経膣分娩ができないので、本来陣痛促進剤の使用は禁じられている事例だったわけです。下から出産することができないのに陣痛を強めれば、胎児は苦しくなってきます。胎児心拍の異常から2時間後に、やっと帝王切開しましたが、生まれた赤ちゃんは重症の仮死状態で、現在重度の脳性まひで、両親が自宅で介護しているという状況です。
事例4ですが、これは去年の事故でして、緊急帝王切開で分娩をしたけれども、アプガースコアは1点という重症仮死で生まれ、現在やはり脳性まひになっているということです。これは、産婦自身が助産婦でしたので、分娩監視記録の胎児心拍を見ていましたら、そこの看護婦らしき方が、「気にしすぎだ」と言って電源を切られ、空白の1時間20分の間に胎児仮死になったようです。再度分娩監視装置をつけたときには、胎児が危険な状態に陥っていまして、慌てて帝王切開したけれども、手後れだったというものです。オキシトシンの量は、開始の時こそ正しく使用していますけれども、増量する間隔が本来の40分ごとではなくて、ほぼ15分間隔で増量していまして、陣痛が2分間隔になっているのにも関わらずさらに増量し、途中分娩監視装置の電源を切っていて、全く監視をしていない状況でも増量しつづけた結果がこのようになったという訳です。
事例5は今年の事故ですが、午前2時に前期破水してからというもの、最も分娩監視が必要なときから、全く分娩監視装置がつけられなくて、監視が行われませんでした。プロスタグランジンE2錠を内服する予定の午前5時、医師の診察も何もない状況で、すでに陣痛も3分間隔にありましたけれども、本来はこれ以上陣痛を強くする必要性は全くない状況なのに、予定通りにPGE2錠を内服することになってしまった、ということです。激しすぎる陣痛のために本人が帝王切開を希望しても、「あなたは緊急じゃないから。外来が終わる午後2時まで待ってください。」といわれて、とにかく激痛に耐えて耐えて、その後おもむろに、医師が手術を開始したということなんですが、生まれた赤ちゃんは、アプガースコアはゼロだったということです。この方に厳重な分娩監視が行われ、不必要な陣痛促進剤を使われなかったら、この事故は起こらなかったんじゃないかなと思います。

− 医師・患者双方からの努力を −

出元: 今年の3月の大阪地裁での原告が勝訴した事例は、医師がPGE2錠を自宅に3錠持ち帰らせて、1時間ごとに飲んで、陣痛が始まったら来るようにという指示したものです。被害者は入院から相当ひどい陣痛が起こっていまして、わずか1時間足らずで出産となって、そのあまりにも急激な分娩のために産道の多発裂傷が起こり、出血多量で死亡したというものです。先月の吹田市民病院を被告とする大阪地裁原告勝訴がありましたが、これもやはり陣痛促進剤による被害でした。陣痛促進剤の分娩事故は、医療側が適応を慎重に判断し、適正に用法・用量を守り、厳重な分娩監視を行うこと。そして、産む側も、陣痛促進剤の知識を持つことで確実に減らせると思っています。今後も、分娩による被害をなくすための活動を続けていきたいと思っています。
以上で、報告を終わります。

村田: どうもご苦労様でした。陣痛促進剤の被害実態報告、出元明美さんでした。一応、今まで5つの薬害被害の実態報告を致しました。一旦壇上片付けまして、ヤコブの実態報告に移りたいと思います。では5人のみなさん、ご苦労様でした。

− <特集> 家族の苦悩と闘いの日々 −

村田: では今から、ビデオを使って薬害ヤコブの報告を致します。

ビデオ上映 資料より内容転載

− 発病の経緯 −

字幕: 第4会薬害根絶フォーラム <特集>家族の苦悩と闘いの日々

字幕: 薬害ヤコブ病

字幕: このビデオはTV朝日ニュースステーションの映像を編集しています。

ナレーター(以下ナレ): 畜産業を営む谷三一(たに・さんいち)さんは、今年1月最愛の妻をヤコブ病で亡くしました。妻のたか子さんに異変が現れたのは5年前、家族そろってのハワイ旅行から帰国した直後のことでした。たか子さんは41歳。平均的に見ても、ヤコブ病を発病するには若すぎる年齢でした。

ヤコブ病は中枢神経が侵される病気で、脳にスポンジ状の空泡ができるのが特徴です。しかも発病すると急速に症状が悪化し、確実に死に至ります。「遺伝性」の他、100万人に1人の割合で主に60歳以降に発病するという「散発性」、そして、医療行為によって感染するタイプの3つに分けられます。

字幕: 発病の7年前、脳の手術で「ヒト乾燥硬膜」を使用。

ナレ: たか子さんの場合、発病する7年前、脳の手術をしたときに移植されたヒト乾燥硬膜からの感染でした。つまり、医療行為によるものだったのです。

字幕: B・ブラウン社製 ヒト乾燥硬膜 ライオデュラ

字幕: 1973年 厚生省が医療用具として輸入承認

ナレ: これが、たか子さんに移植されていたヒト乾燥硬膜「ライオデュラ」です。ドイツのB・ブラウンという会社が製造したもので、1973年、厚生省が医療用具として輸入承認しました。頭蓋骨内側の脳を覆っている薄い膜、これが硬膜です。脳外科手術などをした際、縫合部分を補うために使われていたのが、ヒト乾燥硬膜で、ヒトの死体から取り出したものを乾燥処理して製品化したものです。手術の時の手軽さから、ライオデュラは医療現場で急速に普及していきます。ところが、このライオデュラがヤコブ病の病原体に汚染されていたのです。

字幕: 硬膜

字幕: ヒト乾燥硬膜

字幕: ヒト乾燥硬膜 ヒトの死体から採った硬膜を乾燥処理したもの

字幕: 年間約2万枚のヒト乾燥硬膜が全国の医療現場で使われていた―

− 日米での対応の相違 −

ナレ: そもそも谷さんが事実を知ったきっかけは、厚生省が全国の医療施設に対して行った新型ヤコブ病を把握する為の緊急調査でした。報道事実を目にした谷さんは、調査班の班長だった佐藤医師に、すぐに連絡をとります。

字幕: 緊急調査班班長(当時) 佐藤猛医師

字幕: 1989年の手術と聞いて驚かれた

谷 : ・・・・(私の)症例入っていますか、ということで。いや、入っていません、と。それで1989年の家内の手術と聞いてね、佐藤先生、驚かれたんですわ。

ナレ: 89年の移植と聞いて驚いたという佐藤医師。実はこの2年前、すでにアメリカで同じような報告があったのです。

字幕: 1987年 硬膜移植によるヤコブ病の初症例がアメリカで報告

ナレ: 1987年、硬膜移植が原因のヤコブ病が世界で初めてアメリカで報告されました。移植されていたのは、たか子さんと同じ、ライオデュラです。アメリカ政府は、この第1症例だけで、同じ時期に造られたライオデュラを全て廃棄させ、最終的に一切の輸入を禁止しました。

字幕: アメリカ政府 同時期に作られた製品の廃棄、最終的に一切の輸入禁止

ナレ: 製造していたB・ブラウン社は、複数の死体から採取した硬膜を同じ容器に入れて一緒に処理していたのです。死体からとった材料で製品を造るにしては、製造工程があまりにもずさんでした。

字幕: 返品されたライオデュラ

ナレ: アメリカでの対応を機に、B・ブラウン社は、硬膜を製品化する際の処理方法を、病原体を死滅させるためのアルカリ処理に変更します。しかし、問題となった旧処理法のライオデュラは、日本では回収されないままでした。つまり、汚染の疑われた硬膜がその後も使われつづけていたのです。谷たか子さんだけでなく、硬膜移植によるヤコブ病感染者は全国に広がっていきました。

字幕: B・ブラウン社 病原体を不活性化するため硬膜の処理方法を変更

字幕: 日本では回収されないまま・・・・

− 危険性、分かっていたのに・・・ −

ナレ: ヤコブ病患者から摘出された脳です。脳全体が縮んでしぼんだ状態になっています。ヤコブ病は極めて稀な病気ですが、脳の中に存在するプリオン病原体は通常のウイルスや細菌を処理する方法では死滅しない、強い感染力を持っています。

字幕: ヤコブ病患者の脳

字幕: プリオン病原体 ウイルスや細菌の処理方法では死滅しない

ナレ: そもそもヤコブ病の病原体が感染することは、1960年代、アメリカのガイジュセック博士を中心とする研究グループの実験で明らかになっています。この業績によってガイジュセック博士は1976年にノーベル賞を受賞、翌77年にはヤコブ病患者の組織を移植に使用することの危険性を論文で警告しました。つまり、1970年代にはヤコブ病が感染する病気であること、さらにウイルスや細菌と同じ処理方法では、病原体を死滅させることができないことなどがすでに多くの人に知られていたわけです。

字幕: 1966年末 サルへの伝達実験でヤコブ病が感染することを証明

字幕: ガイジュセック博士

字幕: 1976年 ノーベル医学生理学賞受賞

字幕: 1977年 ヤコブ病患者の組織を移植することの危険性を指摘

字幕: 1970年代にはヤコブ病の感染性が広く知られていた

ナレ: ガイジュセック博士と共に長年研究に携わってきたブラウン博士も、1985年に発表した論文でこう訴えていました。

字幕: ヤコブ病患者から採取した組織を使えば、移植された人に感染するリスクがあるということです。

ナレ: つまり、アメリカでの第1症例は、ブラウン博士らの警告から2年後に起きたわけです。たった1例だけでアメリカが厳しい措置をとったのは、発症すれば確実に死に至るというヤコブ病感染の危険性を充分に認識していたからなのです。国立予防衛生研究所の部長だった北村さんは、アメリカの第1症例が報告された直後、その内容を日本語に翻訳した上で、学会誌に紹介しました。北村さんが翻訳した雑誌の他、原文となったアメリカのリポートも届いていました。しかし、これらの警告について、厚生省は気がつかなかったと言います。

字幕: 学会誌「臨床とウイルス」で紹介

厚生省: アメリカの第1症例について、当時それを認識していた職員は確認されていない。また、第1症例の報告とFDAの安全警告についてはアメリカからの連絡はなく、輸入販売業者からも報告がなかったため、厚生省では把握できなかった。

− 遅すぎた使用中止 −

ナレ: 1997年3月、硬膜移植によるヤコブ病感染が世界で50例を超えたとして、WHOはヒト乾燥硬膜の使用中止を勧告しました。厚生省はこの勧告を受けて初めて、国内での使用中止を打ち出したわけですが、そもそも50症例のうち半分以上が日本の症例でした。つまり、WHOの勧告そのものが日本からの報告を受けて出されていたのです。アメリカの第1症例が報告されてから実に10年が経っていました。

字幕: 1997年3月 WHO(世界保健機構)がヒト乾燥硬膜の使用中止を勧告

字幕: 厚生省 勧告直後に使用停止を決定

字幕: 50症例のうち28症例が日本での感染だった―

谷 : 警告を無視したか、しっかりと答弁してください。妻の命のある内に解決を願っております。

娘 : お母さん。笑わな、どうすんの。

谷 : 絶対治るんやで。直してな、お医者さんら、びっくりさせな。

字幕: たか子さんはヤコブ病では前例のない約5年に及ぶ闘病生活の末― 今年1月に息を引き取った。

− 踏みにじられた「がんばり」 −

リポーター: 谷(たか子)さんは、家族の愛に守られて、通常1年から2年で死に至るヤコブ病と、5年近く闘いつづけました。しかし、そんながんばりを踏みにじるような主張を、国は最後まで続けました。

ナレ: 国がその主張をまとめた最終準備書面。137ページ目は妻・たか子さんについてでした。

書面: 本症例は、療養が長期にわたっており、多くのCJD(クロイツフェルト・ヤコブ病)とは異なった経過を有している。他の疾患の可能性も否定しきれない。

谷 : 治してな、お医者さんら、びっくりさせな。な?ゆびきり、げんまん・・・。

ナレ: 体を動かせず口もきけない身で、たか子さんは病と闘い続けました。4年8ヶ月の闘いでした。にもかかわらず、ヤコブ病の患者が発症後1〜2年で亡くなるケースが多いことを根拠に、たか子さんが本当にヤコブ病なのか疑問が残ると主張したのです。懸命の介護を国に否定された。谷さんは、そう感じました。

谷 : 私たち家族にとって侮辱された、こう・・・ねえ、言い方のことが書いてあるんですがね。長く生きたからといって、長く生きたからヤコブ病ではないというようなことはね、・・・・まったくほんまに、私達がんばって、また妻もがんばって、一生懸命やって、そやのに、そんなバカなこと書かれてね、ほんとにもう、情けのうてね。あんなこと言ってたら、まだまだこういう薬害っちゅうのは無くならないですね。

字幕: あれでは薬害は、まだ、なくならない

− そして、和解 −

字幕: 和解 2002.3.25

アナウンス: では、薬害ヤコブ病訴訟、全面解決確認書、調印をお願い致します。支援機構、サポートネットワークが設立された場合には、その活動に対する支援を・・・

阪口厚労大臣: ・・・・責任を持つ立場でありながら、命という償うことのできないものをなくし、あるいは再起不能にした責任は重大であり、心からのお詫びを幾重に申し上げても、なお言い尽くせない心情が残り、言葉の足りなさを痛感いたしております。

谷 : 阪口大臣の心からの言葉を、私たちは謝罪と受け止め、この調印式を機会に、私達の励ましと明日への希望にしていきたいと思います。そして、再びこのような薬害がおこらないよう、最大の努力をしていただくことが、亡くなっていった者への、なによりの供養だと思っております。

ビデオ上映 終了

薬害ヤコブ病 谷三一さん

− 苦しみは、もういらない −

谷 : みなさん、こんにちは。薬害ヤコブ病原告の谷です。今年3月25日、全面解決の和解ができました。これも今日、ここにおられる人はもちろん、多くの国民的なご支援があったからだと思い、感謝し、お礼申し上げます。厚生労働省の庁舎5号館講堂での確認書の調印。私は、「やっとこれで、妻の無念が晴らせる。5年4ヶ月に及ぶ長い裁判も終わる。」という気持ちで、今までにない高ぶりを全身で感じました。確認書では、今日までの薬害を反省し、このような悲惨な被害を再び繰り返すことがないよう、最善・最大の努力を重ねることを堅く確約され、教育の中でも過去の薬害を取り上げ、安全性に対する関心を高めるという文書が盛り込まれました。そして、国や業の謝罪。だが、元に戻らない命。妻を含め、現代も未来もなくなった被害者。また、その家族。このような苦しみはほんとうに最後に、と思う毎日です。

− 発病、そして死の宣告 −

谷 : さて、話は7年前に戻ります。この裁判を振り返るとまず、生前の妻が目に浮かびます。それも、元気なときの笑い顔が。そして娘3人を育てるのに一生懸命だった時、今思うと幸せな時でした。そんな妻たか子に異変が起こったのが、家族でハワイ旅行から帰った間なしでした。幸せから地獄のような所へ入る、私達の戦いの始まりです。
病気が発症した時は、現在か過去か、たても横も、丸も三角も、また今、自分のいる所も、方向も、何もかも分からなくなりました。自分が住んでいる家のトイレの場所すらが、分からなくなっておりました。その後、病院でヤコブ病と診断されました。病院では幻覚が出てきて、何か恐ろしいものに襲われているように、ベットの上でバタバタして、目や顔色が変わっていた時がありました。今まで聞いたこともなかった「なんという、恐ろしい病気か」と私は思い、ここにいるのは我が妻かと思うような、それはそれはあわれな姿でした。そんな中でも、一日の中で少し分かっているときも少しあり、娘のようになったり赤ちゃんのようになったり、「お父ちゃん、おしっこ」、「はよう、おうち帰ろう」と言ったり、言葉が出てこなくなってきたので、私がたか子に「『あいうえお』と言ってみな」と言ったら、何とか「あいうえお」、また「かきくけこ」と言っておりました。
しかしそれも数日で全く声も出なくなりました。その時、治療方法は全くないという、死を宣告されておりました。妻が横たわっている病院のベットの所から外を見ると、その窓には鉄棒が何本か並べて外に出られないようにしてある、監獄を思わせるような部屋でした。私はここでは治らないなら、またここでは死なせたくない思いで、この病院から出ました。
    そして京大病院を紹介してもらい、ひとまず自宅に連れて帰ると、妻は自宅に帰れた嬉しさからか、笑い顔が戻りました。これが7年前の6月15日です。妻の母も姉妹も見舞いに来てくれていたので、久しぶりの自宅での、心休まる時が流れました。だがそんな少しの幸せも3日と続かず、再び入院することになりました。

− 原因解明、そして妻との訴えの日々 −

谷 : そんな時、何か原因がと思っていた6月20日、小さな新聞記事。それは、「硬膜移植によるヤコブ病感染」の記事です。イギリスの狂牛病問題で研究班ができ、そちらの方からの感染がなく、ドイツの企業が人間の死体から取った硬膜、その移植による「ヤコブ病」。とても考えられないようなショックな記事でした。妻が、自分の病気の苦しみの中、私に原因を知らせてくれたかのように思えました。この時は、まだ後何十人も妻のような被害者がいるとは知る術もなく、今思うと、このことが薬害ヤコブ病裁判の原点であったかのように思えます。
私と妻は、この悲惨な状態を、また旧厚生省や企業のB・ブラウンなどの「いいかげんさ」、「人間の命の重さ」を訴えました。私と妻と言っても、植物状態になっている妻を、その意思とは関係なく、私はテレビ・新聞・雑誌などに出しました。私が妻の手を握り、呼びかけているところです。パジャマ姿のヤコブ病患者、それを見た人はかわいそう、また心を打たれたでしょう。だが妻たか子にとって、どれほど屈辱で恥ずかしかったか分かりません。今、解決ができ、少し時が経ち、そのことを思うと妻に対し申し訳ない気持ちと、許してもらえるだろうか、複雑さが私の中にあります。
    同じ思いの被害者仲間もたくさんでき、大きな力となりました。寒い日・暑い日、厚労所前での連日の座り込み、家族の涙の訴え、今となっては忘れることはできません。私達の問題は、一応和解できましたが、その後も新しい薬害が、またこれらの問題についても解決できていないものがあります。今、国民一人一人、自分のこととして考えるべきだと思います。

− 妻からのメッセージ −
    
谷 : 最後に妻たか子の恐るべき執念・または魔力と言うべきことをお話します。解決をみることなく永遠のかなたへ、昨年の1月23日、旅立ちました。不思議なことに、その12年前の「巳年」の1月23日、手術日でした。病気の原因となった「汚染硬膜を妻の頭に移植された日」でした。亡くなった日と、手術した日が同じ日でした。もう1つ、ヤコブ病と医者に言われ、原因を探していた時、その原因を知らせた新聞記事、これらの出来事、偶然ではなく、妻もやはり私や多くの人々に知らせたメッセージであり、原因究明をしてほしかったのだと思います。
    薬害ヤコブ病に対してのご理解とご支援ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

村田: 谷さん、ご苦労様でした。続いて混合ワクチンの被害の実態報告、MMRの実態報告を致しますが、マスコミの方にお願いしておきますが、このMMRでの実態報告をなさる方については取材をちょっと差し控えていただきたいという、ご本人の強い希望がありましたので、その点よろしくお願いしたいと思います。では続きまして、MMRの実態報告、木下さんご夫妻とAさん、3人の方によってビデオを使いながらの実態報告を致します。では、お願いします。

MMR被害 木下さんご夫妻、Aさん

− MMR訴訟への経緯 −

木下: MMRワクチンの実態と、現在係争中のMMR訴訟の経過について、ご報告させていただきたいと思います。まず3原告を簡単に紹介させてもらいます。私が木下です。妻の佳代子です。そしてAさんです。私の息子は平成3年MMRの予防接種を受け、脳症となり、1年1ヵ月後死亡しました。Aさんの息子さんは、平成元年に接種し、急性脳症になり死亡致しました。岩手県に住んでおられる上野花ちゃんは、平成3年に接種し、急性脳症により重度の心身障害児となり、現在13歳です。今まで普通に暮らしてきた私たち3家族がどのように被害に出会い、今まで闘ってきたのかお話させてもらいます。上野花ちゃんは体調のこともあり、今日は参加できませんでしたが、ビデオで登場してもらいます。
    まず最初に、MMR訴訟についてお話させてもらいます。争点と致しまして、ワクチンの欠陥性、それから阪大微生物研究会の製造責任、国は何の対策もとらず被害者だけを増やしていった国の責任について争っております。そもそもMMRワクチンと言いますのは、はしか・ふうしん・おたふく風邪の3つの混合ワクチンであり、一度に3つの病気が防げるという触れこみで、平成3年4月に導入されました。しかしその実態は、わかっているだけでも死亡5人、後遺症を認定された方が4人、無菌性髄膜炎という副作用被害にあった子どもたちは1800人以上にも及んでいます。
平成5年4月に接種見合わせという形で幕を引きましたが、国はその間、何の有効的な対策も取ってきませんでした。阪大微研は、さらに無許可の製造方法でワクチンを製造し、薬事法違反で営業停止処分も受けております。この人の命や健康を軽く見て、お金儲けしか考えない阪大微研を、許すことはできません。また国が何もしなかったということは、これは明らかな犯罪だと思っております。ただ本来のはしかワクチンに戻すだけで、1800人もの被害者を出すこともなく、まして私達の子どもも死亡することもなく、また後遺症もありませんでした。国や阪大微研は、この裁判の中でも謝罪したことはありません。まして、反省すらしておりません。私達の死亡や後遺症を残した原因として、未知のウイルスのせいだとか、家族の病気が移ったとか、そういうふうにさえ主張しております。

− MMR訴訟のこれから −

木下: 最後にMMR訴訟の最新情報について、お話させていただきます。平成5年12月に大阪地裁に提訴し、平成14年5月結審しまして、今月28日に判決の予定でしたが、急遽延期になりました。理由と致しまして、国は被害情報を隠しており、審議会の議事録などはないというふうに主張しておりましたけども、国会に質問支持証(?)というものを提出し、国からの回答により、次のことが分かりました。導入開始の3ヶ月間で死亡一例を含む重度の被害者が3名おられることが分かりました。国はMMRの重篤な被害がないというということで、MMRを勧めるような通達を流し、また証人尋問でも死亡例はないと主張しております。明らかに偽証だと思います。更に、他の予防接種では、死亡例が出たら速やかに中止という措置もとっております。この新たな資料を採用するように申し立て、裁判所は28日判決の予定を、進行協議という形に変更しました。国の嘘が判明したわけですけども、まだまだ予断を許されないような状況です。
私達の使命は、この裁判で国や阪大微研の全ての責任を認めさせ、謝罪させることです。真に国民のほうを向いた行政となるように、2度と薬害が繰り返されないように、薬害ヤコブ病の勝訴に続き、私たちも勝ちつづけていかなければならないと思っております。判決は伸びましたが、MMR訴訟に更なるご支援とご協力をお願い致します。

− よかれと思ってしたことが −

木下: 木下の家内です。次に、私達の息子、木下大輔の被害の実態をご報告させていただきたいと思います。MMRワクチンは平成元年の4月に導入され、その年の9月に息子は生まれました。その時の市の広報には「はしかワクチンは平成元年4月よりMMRに切り替わりました」と書いてありました。また、1人目の子どもで不安もありましたので、育児書・育児雑誌をよく読んでおりましたが、そこにははしかやおたふくかぜなどの「うつる病気の恐ろしさ」が書かれており、「恐ろしい病気からワクチンで赤ちゃんを守ってあげるのが親の愛情ですよ」といった文章で、必ずといっていいほど締めくくられてありました。そして、「スケジュール表」なるものまでついていて、いつの間にか私は、「子どもの健康を守るためには全ての予防接種を受けさせていってあげることが大事なことなんだ」と思わされていました。また、MMRについては、「3つの病気を1回のワクチン接種で防げるのであれば、息子も痛い思いは1回で済むし、子どもにとって病院に行く回数は少ないほうがいいよね」という思いで、私は平成3年6月27日に、MMRワクチンを接種させてしまったのでした。
接種してから2日後の6月27日夕方、息子は突然激しいけいれんを起こし、救急車で市内の大きな病院のICUに入院する事態となりました。入院直後の生命の危機こそ乗り越えることができましたが、首から下が全く動かなくなり、呼吸するための器官も麻痺してしまったため、人工呼吸器を24時間手放すことができなくなってしまいました。入院中は1回も家に帰宅することはできず、また入浴をさせてもらうときも、看護婦さんに3人がかりで小さな体を支え、そのうちの1人が常に手動ポンプで空気を送っておいてやらないと、たちまち生命の危機となる状態でした。そして、長期の人口換気が体の負担となってしまい、1年1ヶ月後の平成4年8月8日に息子は亡くなりました。

− 真に「子供たちのため」の予防接種を −

木下: 接種した病院の先生が、事故の起こった頃より「これはMMRワクチンによる予防接種被害ではないでしょうか」と言ってくださり、行政への手続き方法を教えてくれたり、また弁護士さんを紹介してくれたことで、早い時期からMMR被害であることを疑え、また訴訟にこぎつけることができたのですが、私たち親が安心して育児をできる環境を整え、健康に育てるための支援をするべき行政や育児情報は、自分達の本来の目的を忘れています。そして利益を得ることを第1に考えて、親たちに病気の不安をあおり、ワクチン接種へとかりたてています。
MMRワクチンは、息子の死亡した翌年、平成5年の4月に中断され、また予防接種は義務ではなくなったと言われていますが、一般の親御さんにどれほど伝わっているのでしょうか。現在子育て真っ最中のお母さんたちは一生懸命、ワクチンで子どもの健康を守ろうと病院に通い、行政や育児雑誌は今もスケジュール表を掲載しながら、予防接種を推進しつづけ、副作用の情報は隠しているかのように、教えていはいません。私たちはかけがえのない息子をなくし、MMR接種と死亡との因果関係をたった3〜4枚の簡単すぎる書類で否定され、何度も奈落のそこに突き落とされました。そして裁判をはじめ、提訴から4年経ち、審査請求への結果が出て行政上の認定を受けることができましたが、現在係争中であるためか謝罪の言葉は全くなく、予防接種をあんなに勧めつづけた人たちの、被害を受けてしまった家族への対応は一貫して冷たく、お粗末で誠意も人間味も全くないものでした。
平成5年の末に提訴して、9年という長い長い年月をかけて、ようやくこの裁判は地裁での判決を迎えようとしております。この判決が次の世代を担う子どもたちのために活かされること、ひいては予防接種行政が子どもたちの方を向いたものとなるよう、そして事故から1年1ヶ月間の入院中、私たち親に心配をかけまいとするように、1人で病院のベッドで一生懸命頑張ってくれた息子に対して、応えていける親であるように、語りつづけていこうと思います。本日は貴重な時間を頂き、本当にありがとうございました。次に、上野花ちゃんのビデオを放映いたします。

ビデオ上映

− 薬害根絶のための勝訴に向けて −

上野: 岩手県の上野秀夫です。これが、MMRの被害を受けた、娘の花です。それから、妻のひろこです。花は、平成元年6月、MMRワクチンを接種しました。打たせてしまったのが悪いのではなく、あってはならない欠陥ワクチンを製造し、被害が多発している中で中止を先送りし、被害を拡大させたのは国の責任なのです。第一審が結審し、もうすぐ判決が出ますが、国や製薬会社の責任が明らかにならなければ、また同じことが繰り返されます。これは、単なるワクチンの副作用でなく、まさに薬害です。二度とこのような被害が繰り返されないためにも、この裁判では是非勝たなければなりません。みなさんのご支援をお願い致します。

ビデオ上映終了

− 「だまされた」 −

A: 亡くなったAの父です。Aは長男です。長男の死後、予防接種の被害者救済制度に申請しましたが、約3年間待たされたあげく、結果は「入院中の髄膜炎についてはMMRとの因果関係は認めるが、その退院直後から死亡に至るまでの症状については認めない。死亡したのは家族から感染したインフルエンザによる急性脳症のためだ」というものでした。私はその内容に納得がいかず、豊中市や大阪府に交渉に行ったけれど、決めるのは国だとか、自分たちはパイプ役でしかないとかいう責任のなすりあいで、まともに取り合ってもらえず、提訴に踏み切りました。
私達の今の気持ちは「だまされた」という思いで一杯です。病気の恐ろしさばかりを強調して、副作用はほとんどないと書いてある予防接種手帳・育児雑誌、それを支える予防接種推進派の医者たちにです。あのMMRワクチンを接種し、長男を亡くし、その後やっとの思いで生まれてくれた長女(9才)、次男(6才)がいます。この子達は、何ひとつ予防接種を受けていません。それなのに、この子達のほうがよっぽど元気にすくすくと育っています。

− 大きすぎた「犠牲」 −

A: 亡くなった長男は、はじめMMRの中のおたふく風邪ワクチンのために無菌性髄膜炎にかからされ、3週間以上もの入院を強いられました。そして、その2日後から下痢・嘔吐から脱水症状になったりし、健康状態が回復しないまま、帰らぬ人となりました。「おたふく風邪」なんて・・・。長女が幼稚園の年少のとき、幼稚園ではやり、同じ組でスクールバスも隣に座って一緒に帰ってきて、その後も公園で遊んだその子が次の日に発症しました。けれどもそれだけべったり一緒にいたうちの長女には、全然感染していませんでした。小学校一年生のときにもやはり、はやりましたが、結果は同じでした。それにその時、幼稚園や小学校でおたふく風邪にかかってしまったお友達も、誰も髄膜炎になったとか入院したとかいうことはありませんでした。おたふく風邪ワクチンなんて、接種する必要があったのでしょうか。
おたふく風邪だけじゃなく、結核にも、百日咳・ジフテリア・破傷風にもポリオにも、はしかや風疹にも、長男を亡くすまでは接種して当たり前、それが必要、それが義務だと思っていました。しかし、これらの病気に何ひとつ、長女も次男もかかっていません。自分の子どもを亡くすという大きな犠牲を払い、とても悲しい経験をして初めて、予防接種の「恐ろしさ」を知らされたのです。なぜ、もっと早く「副作用が多発している」という事実を公表してくれなかったのでしょうか。そんなことを知っていたら、決してあんなMMRなんて受けていなかった。あのMMRさえ受けていなかったら、今ごろ長男は元気に中学校に通っているだろうと思います。

− 誰のためのワクチンか −

A: 阪大微研は、製造方法を無断で変更し、国家検定を受けていないワクチンを販売し、業務停止の処分を受けました。それは犯罪行為だと思います。人の命に関わることに、そんなことをして許されるのでしょうか。また、厚生省は重篤な副作用事故が起こっていたのを隠していました。決して許されないことです。誰のためのワクチンなんでしょうか。予防接種なんでしょうか。副作用が何百分の一とか何千分の一とか、何万分の一とか言われますが、1人ぐらいだったらいいんでしょうか。その子が、その1人が自分の子どもだったらということを考えてください。
健康な子どもにわざわざ毒を注射しなくても、病気になって、その後治す薬を開発してほしいと思います。今、思うことは病気よりも、営利のために作られた欠陥ワクチンのほうが恐ろしい。また、それを守ろうとし、副作用を家族の病気、他の病気のせいにしたり、副作用の情報を隠したりしている阪大微研・厚生省、それを取り巻く医者たちのほうが、よっぽど恐ろしいと思います。何のための救済制度なのでしょうか。子どもたちや、その家族の立場になって考えてほしいです。
    私たちは、健康に育っていってくれることを願って受けた予防接種で逆に病気にされ、最後には血を吐いて命を奪われてしまうという、突然の出来事が信じられませんでした。その後には、認められた髄膜炎でさえ、当時入院していた箕面私立病院の医者達は、MMRとの因果関係を否定しようとしていたのです。私たちは何も信じられなくなり、特に母親は買い物に出ることすらできなくなりました。こんな思いをするのは、もう私達で最後にしてください。子どもは親の宝物です。社会の宝物でもあります。そんな大事な子供達にされるワクチンなのですから、もっと細心の注意を払って実施してほしいと思います。長男は大掛かりな人体実験に使われたと思っております。そんな気持ちがしています。もうこんなことが2度と起こらないように、そして不必要な予防接種はやめて、みんなが安心して受けられる予防接種行政になることを、お祈りします。本日は私達の被害報告にお時間を頂き、まことにありがとうございました。

村田: どうもありがとうございました。第1部は、これで一応終わりたいと思います。7つの薬害の実態報告をさせていただきました。今から休憩に入りまして、14時45分、2時45分から第2部を開きたいと思います。第2部は、学者、さらには各被害団体の責任者グループによるディスカッションを予定しております。では、一応これで休憩に入りたいと思います。


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